芽室はうねる、押し寄せる〜岩手生まれ関西大生の道東滞在記〜
秋の温かい日差しが、日高山脈の向こうに沈みかけていた。オレンジの斜陽が際立てる平坦なようで鋭い稜線は、視界の端々まで広がっている。この山脈が独り占めしているのは、十勝の無限に広がる平野と、芽室の町がもう少しの間受けるべき夕日のふたつだ。
独り占めなどという見方は、この土地への羨望と名残惜しさから来たのかもしれない。私は今、一か月の芽室での暮らしを終えて、駅のホームから前よりも饒舌になった景色を眺めている。ここから見えるあの家に、どんな人が住んでいるかを知っている。この線路の先に流れる川で、鮭がよく釣れることを知っている。遠くにある山脈の麓の畑の、土の柔らかさや冷たさを知っている。一か月前、同じように芽室駅から山脈を眺めた私は、そのうちのひとつも知らなかった。なぜ、この町はたった一か月でこれほど多くのことを教えてくれたのだろうか。そして、その記憶ひとつひとつが心を温めるのは、なぜだろうか。
故郷は窮屈な町だった。岩手の深い山間にあって、どこにいても急な山肌が眼前にそびえる。人だって窮屈だった。僻地教育の硬直した人間関係で小、中学校時代を過ごした私は、全く知らない場所で0から暮らしを始めることにずっと憧れていた。今思えばそれは憧れというよりも、地元しか知らないことへの焦りだったと思う。盛岡の高校を選んで実家を離れただけでなく、大学だって修学旅行でしか知らなかった大阪を選んだ。しかし盛岡も大阪も、継続的な関係は友人かバイト先くらいしかない。全てのつながりが形式的に思えて、その土地に住んでいる実感を得ることがなかった。そんな煮え切らない思いをずっと抱いていた私が、学生生活の終盤に出会ったのが芽室だった。
北海道芽室町。人口約1万8000人、面積は513平方キロと、町単位としては比較的広大で、耕作地はそのうちの41%にものぼる。10月のはじめ、私はそんな土地に明確な目的もなく、期間も決めずに飛び込んだ。こんな適当なことをしていていいのだろうか。芽室の人に自分をなんと説明したらいいのだろうか。行きの飛行機はそんなことで頭がいっぱいだった。
しかし、到着した日の晩にはもう不安が和らいだどころか、それ以上の驚きが連鎖した。ただの学生に歓迎会を開いてくれただけでなく、あふれんばかりの人たちが集まってくれていたのだ。
「何しに来たの、いつ帰るの」
「実は、どれも決めてないんです」
「いいね、最高だね」
こんなやり取りを何度もしたことが嬉しかった。目的すらない学生の滞在を喜んでくれて、朝まで付き合ってくれる人たちがいた。最も驚いたのは、その中に「よそもの」も少なくなかったことだ。ここは自分のルーツなど気にせず輪に入れる場所なのかもしれないと思うと、その日は安心して眠れた。
そんな印象の裏付けは、翌日から始まったイベント尽くしの日々で明らかになっていった。メムピーフェス、おみやげ会議、かちフェス、MDLなど、一か月だけでもいろいろなことが起きた。芽室の特殊さを端的に表す現象は、イベントに参加すると自分の居場所が指数関数的に広がることである。芽室のイベントの特徴は、いつもどこかで誰かが何かの準備をしていること、老若男女誰もが参加すること、やりたい人と協力したい人がそれぞれ自分たちのやる気でやっていることにある。そんな芽室の人たちが作り上げるのは、お祭りというよりも日常の延長にあるような絶妙な空気だ。
そんな雰囲気があったからこそ、ありのままの自分で色んな人とつながることができた。ありのままでつながるから、一時だけの上辺で終わらない、立場や年齢を越えた関係ができた。「他では3年かけて出来た関係が芽室じゃ一週間でできた」と誰かが言っていたが、これは決して誇張ではないだろう。お世話になっている人の知り合いやその知り合い、だけでなく単に話しかけた人、話しかけてくれる人など、一日で山のようにつながりが増えることが芽室では珍しくない。
イベント自体が多いため、知り合えた人とまた違う場所で会うことも多い。そしてそこにはもう、私の顔を覚えていてくれる人が沢山いるのだ。芽室の日常が、よそものも自然体でいられるイベントをつくる。そして自然体が心地よいつながりをつくり、新参者の新たな日常と居場所までつくってしまうのである。
私が故郷で抱いた憧れは、いつのまにか叶っていた。どこから来たとか、何をしに来たとか、そんなこととは関係なく、あるがままの自分から樹形図のようにつながりが広がっていく。そして気が付けば居場所がいくつもある。この作用が芽室の力なのだろう。芽室の人は、生け花の一本一本のように豊かで、きれいで、息が長い。
では、居場所とは何だろう。芽室にいて見つけたひとつの答えは、何を選び取ってもいい自由があるところ、そして何も選び取らない自由もあるところ、それが心地よい居場所だということだ。イベント尽くしとは言ったが、余白がないわけでもなければ、全てに顔を出す必要ももちろんない。一日中家にいれば、雲一つない十勝晴れが空の色と家の中の影を時間ごとに装飾してくれる。散歩をしていても、変化の多い畑や森の色とゆるやかな地面の勾配の組み合わせに、ひとつとして同じものがないことに気付く。
そして一歩外に出れば、大阪に負けないほど多くのことができる。その選択の幅は、「やりたい」だけでなく「やったらどうなるんだろう」が実現できる芽室の空気と、アイデアを実現させた人自身が見つけた魅力があったからこそ担保されるものだ。収穫の手伝いやサイクリング、住まわせてもらった宿でのお客さんとの出会いなど、身をもって発見できることの豊富さは芽室にいることでしか味わえない。楽しみ方は自分で見つけられるということも、芽室の人たちが教えてくれた。何をしていても気付きと感動があるのは、この土地をよく知り愛する人たちが色々な視点から芽室を掘り出してきたからこそだろう。
無数の中から自分で選び取る発見が、芽室の生活と景色を饒舌にしてくれる。そんな記憶の積み重ねが、景色の見え方を変え、心を満たす。何をしていても、何もしなくても心が動くのが芽室なのだ。
芽室に飛び込む前の日は、東京で内定式に出ていた。社会がもう半年後に迫ってくる焦りや、新聞記者という道を選んだことに対する不安や迷いとは、まだ当分の間付き合っていかなければいけない。でも、それでもいいと思えた。今の私には、戻りたい場所がある。そこへ戻って、色んな話をしたい人が沢山いる。芽室の心強さを感じると、むしろどこまでも遠くに行けるような気がしてきた。
「明日からいないって変な感じだね」
そんな言葉をかけられた昨日の嬉しさの余韻がまだある。人として大きくなって、この町に恩返しをしよう。それは芽室のためというよりは、芽室の人の喜ぶ顔を私自身が見たいからだ。次、芽室に来たら何をしようか。私の何が手土産になるだろうか。そんなことを考えると、名残惜しさは待ち遠しさに変わり、いつもより大きな歩幅で帰りの電車に乗れた。
鍋倉永憲 なべくらひさのり
岩手県出身。雪国で育った自信のもと10月の芽室にジャケット一枚で飛び込み、40℃の発熱を経験。来年から読売新聞東京本社記者。